理性と本能
最近読んだ本で、岡本太郎の「芸術と青春」がある。その中に、処女無用論というエッセイがあった。
大変興味深い話で、日本にある処女へのあこがれや、清潔感のようなものはよくない(ここまでシンプルではない)という考えである。
男も女もまずポリガミー的性向(一夫多妻制、一妻多夫制)を持ち、育ち年を取るにしたがって。モノガミー的(一夫一妻制)性格に向かうレオンブルムの言葉。変化とか冒険の欲望が、安定とか単一とかまたは安息とかという方向に変わったときにはじめて結婚すべきであると、またその他にも、人の人生には貪欲な情熱的な青春の一時期というのがあって、もしこれを避けようとするならば必ず罰せられる。(同)だから、そのような本能の要求、青春の溢出は結婚前にらちがあけられていたほうがーつまり損害のない時代に経過してしまった方がよいのではないか」
恋愛事件の生活が結婚生活に先立っていなければならない。
つまり、本能生活が、理性生活に先立っていなければならない
ということを述べていた。
大変興味深い、人生冒険してから、理性生活に入った方がいいという事である。
これは、恋愛だけでなく、人間の進路選択や、人生観にもいえることなのではないか?
この本を読んだとき、私の昔の記憶がふとよみがえった。
それは、私がクラウドファンディングを行っているときのことであった。
私は、2013年にNYの留学に行くために、クラウドファンドを行った。そのとき、私はダンスで社会に貢献したいなどの、決まり文句タイトルにいろんなところへ、自分が社会を変えたい、よくしたいなどを堂々とかたり、いろんな人のもとへ駆けつけ話した。そこには若さゆえの情熱と、突き抜けた感情があった!絶対できる!自分!!という。
ただ、それは、若さゆえの熱なのもあって、未来がクリアに計画できていない、私の留学プロジェクトをみて、大人たちにこてんぱんにされたものだ。。
ある日、私は、ある会社の社長にあった、私の行ったプレゼンに興味をもち、私は会社に呼び出された。
彼は私に聞いてきた
「君、何がしたいの?」
「ダンスで社会をよくしていきたいんです!」
この、ただビッグマウスな私の決まり文句にただ夢を追った若者だと思う人も過去にあった人では多かったが、かれはこう尋ねてきた。
「君何歳だね?」
「私21歳です。」
私は、何を話したいのかと不思議に思ったが彼はこう続けた
「君のような若い人は、社会貢献とか、そういうこと考えなくていいのだよ、もっといろいろ衝動的に生きて、やりたいことやって冒険しなさい。」
私は、今まで聞いたことない、そのアイデアに大変驚いた。
彼曰く、その社長も、20代の時は、自分の思うことをやり、自分のやりたいように、人生を駆け抜けてきた、時にはまわりに迷惑もかけ、お世話になりながらも、好き勝手していたそうだ、ところが30代過ぎになったときに。かれはなにか返していきたい、と思うようになったというのである。
そして、彼はつづけた
「20代の君に社会貢献は早すぎる、僕は君にNYでさんざん好きなことを思いっきりしてきてほしいと思うよ。そして、冒険しきったときに、君は返したいと自然に思うようになるから」といってくれた。私は、感動した。驚きもしたし、彼は、クラウドファンドのwebsiteにはお金を入れず、封筒でお金を渡してくれた、その時の感動と言ったらいまでもわすれられない思いである。私は泣きながらお金を受け取った。お金というものを、今までで一番重たく受け取った瞬間であった。
恋愛でも、人生でも、自分勝手に生きることがあってから、落ち着いていく、自分勝手に危険を冒して生きてから自分を知っていくのではないかと思う。自分がなにものなのかわからないと人間落ち着けないし、どうふるまっていいのかわからないのである。
前文の引用でも使ったように、本能生活が、理性生活に先立ってなければならないのである。そしてそれを事件が危険にならない間に済ませておくべきなのである。いろいろ見ていない人間は、あとで折れてしまう。自分の見たい、知りたい、やってみたいという知的好奇心をあきらめることはあってはならない、そして、他人の知的好奇心を否定してはならない。
私は昔から、子供に触れることが多かったが、本能生活を優先しない、日本の教育を見てきた、子供ながらに、理性が優先されている。理性も大切だが、too muchだ。小学校、中学校、高校、大学とどれだけ本能で自分の道を決めていけるのだろうか。特に、高校、大学はどれだけの本人の決定で進むことができるのであろうか、人生、理性だけに生きてしまった人間ほど、つまらない存在はない。若い時に、あれをするとこうなる、この人と付き合うとこうなると効率的なりすぎるのは、どういうことか、若い時こそ、冒険して、自分で見定めでいこうではないか。
つまり私が理性と本能に対して言いたかったのは、理性とは、本能の先にあるものなのではないのかという事である、いろいろ本能的に見たり、経験した後に、自分なりの理性や、社会性は生まれてくるのではないか?
それはNYにきてからこそ強く思う事でもある。私の周りにいる人は、自分と社会とのバランスが取れており、自分の中で築かれた、理性を守っているように思うのである。
彼らはみな生き生きしており、また個性があり、私は魅力を感じてしまう。
自分は、まだ若い、まだまだ見たい、知りたい、聞きたいとおもう欲望はあふれ出てくる、私はこれに素直にこたえたい、自分の大きな好奇心の器が満たされるまでは、これを貫くことが自分であり、それが満たされたとき、私も私を支えてくれた社長であるかのように、人を支えていきたい。今は、発言力もなにもなく、若い自分がいう事に何の説得力はないのはわかっている、しかし、自分は自分を突き通す自身はあるし、自分について悩む人々の少しでものアドバイスになれば光栄だと思う。
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